酸いも甘いも刹那的

心地良い安心感と世界一の幸せ者

2019年に寄せて

2019.12.29 PM5:28

 

年内に一人でいるタイミングがもう最後かもしれないなと思って、ふとこの文章を書き始めている。

推敲することもなく、恐らく一筆書きで。

一筆書きの美学っていうタイトルのコラム、どなたが書いていらしたような。

 

2019年が終わる。平成が終わって令和になった。

平成最後は奥野涼の歌を聞いて、令和初日は満願寺西野亮廣氏の光る絵本展を見たなぁ。

今年はエンターテイメントをたくさん体験した。とってもいい年だった。

 

20代の僕は毎年「悩んでいる時間」と「楽しい時間」が9:1くらいだった。

どれだけ悲観的やねん。

それが今年は2:8、もしかしたら1:9くらいで楽しい時間だったように思う。

厳密に言えば、3月までがしんどくて、そのあとの9ヶ月間はとっても楽しかった。

自分一人のキャパなんてたかだか知れている程度でそれを大きくするのは難しいから、何かを捨てて容量を空けなきゃいけなくて、選んだにしろ選ばれなかったにしろ、うっかり出来た「持て余し」のおかげで手に入ったものがいっぱいある。

 

もっと自分を大切にしようと思って、そのためにもっと周りにいる人を大切にするということ念頭に置いて日々を送っていると、大切にしているつもりがそれ以上に大切にされているなと。僕、めちゃくちゃ幸せもんでした。

 

人の好き嫌いがはっきりしている上に捻くれて斜に構えていたせいで圧倒的に友達が少ない正岡ですが、嗅覚だけはやたらといいので数は多くないにしろ素敵な友人がいることをとっても嬉しく思っています。大好きです。

貰っている優しさに利子をつけて返せるといい。当面の目標にする。

 

新しい場所に行って、新しいことをして、新しい人や価値観に出会えた1年だった。30歳を越えて、初めて海外に行った。文化や空気が違っていてとても素敵な経験をした。時間とお金が許せば、もっといろんな国にも行ってみたいなと思う。

 

2020年も変わらず、背伸びをせずにやるべきことを淡々とやっていきたいですね。

世の中のことをもっと知るべきだし、「楽しい」の幅を広げていきたい。

 

相変わらず他者目線を持っている優しい人が大好きだし、挑戦している人はめちゃくちゃかっこいいと思うし、ポジティブで誠実な人と楽しい時間を過ごしたいと思っている。

 

あと文章を読むのも、書くのも好きだ。

会話で使う表現と、文章で使う表現って全然違くて「日本語」ってはちゃめちゃにいいなと思う。

綺麗な表現を好む一方、粗雑な言葉を使う自分も自分らしくていい。

2020年も素敵な人には最高な褒め言葉を言い続けたいし、ムカつく奴にはファックって言い続けたい。ファックは日本語ちゃうけど。

 

平凡地味でも平穏無事でもなんだってよくて、年に何度会えるとかも置いといて

お互い健康でやっていければええなぁと思います。

 

本年も大変お世話になりました。来年もずぶずぶにお世話になりたいと思っておりますので引き続き何卒。よろしくお願い申し上げます。

おもいのさき

2年ぶりに夏を過ごしています。

こんなに暑いんだなぁ。

 

捨てる神あれば拾う神あるとはよく言ったもので

僕は僕を僕たらしめる場所を作って守ってくれている友人に恵まれている。

出会いもタイミングの妙というやつだ。

 

恋でも愛でもないんだけど

等身大のかっこわるいとこは見せても

かっこわるいことはしたくないなぁと思わせてくれる大切な場所。

 

半年分の、もしかしたらそれまでの1年半も含めた

僕がなんとなく見つけたものがある気がしている。

 

変わる努力と変わらない努力を半分ずつしながら

毎日を丁寧に過ごして自分の場所にちゃんといられるといい。

 

解けるのは靴紐でもなく、握った手でもなく

絡まった感情であるといいなぁと思っている。

 

どの角度から見たって

どんな向き合い方をしたって

さよならは悲しいので

できるだけ減らせるように、できるだけ遠回りできるように

それでも訪れたものに対して、できるだけ優しく迎えられるような人間になりたいと思った。

 

僕はもらったもので生きている。

恋や愛について(中間報告)

好きになったり好きになられたり嫌いになったり嫌いになられたり

それなりの出会いと別れを通り過ぎてきて

恋愛物と言われる映画や小説や音楽にも触れてきているけど

いまだに僕はその本質や答えに全くたどり着けそうもなければ

傾向と対策も出来ないような気がしている。

 

いつも、唐突に始まって唐突に終わる。

 

僕の中の相手を殺して、相手の中の僕を殺してしまったのだから

それなりの代償は払うべきなんだと思うんだけど

即死刑じゃなく、死ぬまで一生会うこともないという終身刑が適用されがち。

執行猶予くらいつけてよ、なんて思うけど

被害者感情を考慮すると、まあ妥当だよなとも思う。

 

日常では意識することも思い出そうとすることもないけど

海馬に丁寧に糊付けでもされてんちゃうかなってくらい

今でもたまに夢に出てくることがあって

油断してる時に何食わぬ顔して出てきはるのはずるいんちゃうかな。

いい夢かわるい夢か判断が難しいんだよな。

 

そんな話を美味しいカフェラテを飲みながら

「うんうん」と聞いてくれていた友人が

今度、海にでも行こうよってなんの脈略もなく言い出して

それが妙にすとんと僕の中に落ちてきて予定を探っている。

 

こんな些細な一言から何かが変わるのかもしれないし

点が線になるかもしれないし

緩めたブレーキでクリープ現象が起きて

タイヤが転がるのかもしれないなぁ。

 

僕に必要なのは時間でもお金でも次の恋でも次の大きな失恋でもなくて

こういう毎日の小さな気づきや変化の積み重ねなんだと思う。

 

カップの底で溶け残った砂糖みたいなあれもこれも

冷めきったカフェラテと一緒に飲み干しながらそんなことを考えていた。

 

以上、中間報告を終わります。

2:22

役目を終えたことを自覚したものや事柄や気持ちは

音もなく、ゆっくりと、気付かれないように消えていくべきなんだと

空のカップの中で溶けていく氷を見て思ったまさおかです。

夏はもうすぐそこまで来ている。

僕は未だに春に取り残されているような気がしていた。

 

久しぶりに会った方に新しい髪型を褒めていただいたときに

口をついて出た「いやぁ、そろそろ気持ちにも区切りをつけて少しずつでも前に進もうと思って」という言葉は照れ隠しだとしても、少なからず多分本音だ。

これをどう捉えるかは僕次第ではあるのだけど、なんだか悪くはないよなぁ。

 

「刹那的なものに身も心も寄せない、引っ張られない」という

あの日に僕自身とした約束をちゃんと守れていると実感ができたいい一日だった。

 

「気遣いして気疲れしませんか?」と聞かれたけど

これはもう職業病というか生き方な気がしているので適材適所だ。

僕のしたことで誰かがちょっとでも楽になるならそれは嬉しいことだし自己満足の一種だと思う。

 

あと、これを読んでくれている人がいると知って、うれしはずかしな気持ちになった。

備忘録でしかないのに、「ちゃんとしようとしてるんだろうなと感じた」とおっしゃっていただいて素直に嬉しい。

多分僕は即効性のある「感情」より手間のかかる「思考」の方が好きで、だからこうやって長ったらしく書き留めることで自分の頭の中に潜ることをやめないんやと思う。

 

言葉にできていることとまだ言葉にできていないことがある。

痛々しく、生々しくもちゃんと想っていたあの日の僕がちゃんと死ねますように。

&

いつ、どこからかはわからないけど

手に入るものと手放すものが均衡して

今となっては価値の大小に関わらず、手放すものが増えてきているような気がする。

 

確実に増えていく年齢という数字と

確実に減っていく余命という数字があって

「減らないもの」に価値を感じるようになってきたまさおかです。

増えることより減らないことの方が大事。

でも預金より投資信託の方に魅力を感じるのもまた一興。

 

最近は人生が楽しくて、ブログを書けていなかった。反省。

楽しいことこそしっかり記録しておくべきなのだ。

 

新しいものを見たり、新しい人を紹介してもらったり

その一方でとても古い付き合いの人とまた繋がったり

縁というものを少し信じてしまいそうになるなぁ。

 

あと何分、あと何時間、あと何日、あと何年、あと何回

たらればを言い始めるとキリがないけど、そういうのがあってもいいよな。

 

梅雨も夏も苦手なので早く秋が来て欲しい。

絶対にない、ということ。

最近日に日に食事が億劫になってきているまさおかです。

美味しいものは好きなんだけど、食べるという行為が難しい。食べた後ちょっとしんどい。


叶うならドリンクかカプセルか点滴みたいなもので全栄養をバランスよく摂取したい。


そんなこんなで夜カフェしに来たバルからお届けしています。

金曜日の夜はみんな楽しそうで良い。

あちこちから色んな話が聞こえてくるのでまぁ飽きない。

大人の仲間入りしたような気持ち。


嘘を嫌うと嘘つきな自分のことも嫌いになった日があって、出し抜いたり、うまく立ち回ったりというものの上に積み上がったものはまぁ不安定やったなぁと思い返している。


なので、今日みたいな日は「なんだかんだいい一日だった」とは言いたくなくて

「それなりに微妙やったな、明日は良くしような」と思うことにしている。


誰かが丁寧に編み上げた時間の存在を思い知っている最近の僕です。

たかが。されど。といったところ。


友達に送っていたLINEを見返していて

なんかこう、しんどかったしきつかったんやなぁって思う。


いま、それもこれもあれも血となり肉となり僕を作っていて、今では大事な僕の一部やなぁと感じている。


周りの人に目を向けると、ほんとにそれぞれがそれぞれの理不尽と戦ってるし、抗ってるし、立ち向かっていて、すごいなぁと思う。

それに比べたら僕のなんて、大したことない気がする。

もっと楽しくて、もっと難しくて、もっと大変で、もっとワクワクする方を選んでいかないとね。


あ、お会計お願いしまーす。

天井に思考を泳がせていた日について

体調が悪いまさおかです。

 

最近3週間に一度のペースくらいで体調を崩す。

社会人としてはかなりだめ。

前より食事にも気を遣ってるし、睡眠も取っているし、運動もしているのになぁ。

 

というわけで本日はお休みをいただいてずっと寝ていた。

うつらうつらと現実と夢の間を行き来していて、懐かしい風景が出てきた。

温度も感触も香りも音だって思い出すことが出来て。

「最後」というものはいつだって少なからずマイナスなものが付随するのに、なんでこんなに優しいものとしてアウトプットされるんだろうなぁ、都合いいなぁなんて考えている。

 

僕の方が大切にされていたから、そうやって感じるんだろうなと思う。

気づくのはいつだって時間が経ってからなんだけど。

ほんま幸せもんやなぁ。

 

一人で生きていきたいと思う反面、大切な人がいる時間の素敵さも思い知っているのでどっちつかずやなぁって苦笑いの日々を過ごしている。

 

不安定な記憶の中を泳ぐような日はそんなことを考えていた。

そんなこんなの1日だったけど、休んでしまったので明日からまた頑張って働く。